第六章 「血と技」(390)
「なぁなぁ、おにーさん……」
朝イチに顔を合わせるなり、飯島舞花が荒野を手招きして、小声で聞いてきた。
「……なんか、茅ちゃんご機嫌のようだけど……。
昨日、なにかあった?」
「……わかるのか?」
荒野は、半ば本気で呆れた。
茅は、表面上、表情の変化が乏しく、かなり慣れてきた荒野でさえ、読みとりづらい、と、思うことが多い。
『……本当に、一目見ただけで……』
読みとったのかよ、と、心中で首を捻りながら、
「っていっても、特に変わったことは……。
ああ。
昨日は、沙織先輩……佐久間先輩が、うちに来ていたくらいかなぁ……。
先輩と茅、仲がいいから……」
「それは、知っているけど……」
舞花は、少し思案顔になる。
特に最近、放課後に、茅と沙織が一緒にいることが多い。当然のことながら、舞花をはじめとする全校生徒たちにも、その様子は目撃されている。
「……あの二人が一緒にいるのって、いつものことじゃないか……。
本当に、それだ……」
と、いいかけたところで、舞花の表情が一変する。
「……そうかそうか。
なんか今、唐突に納得した」
舞花は、ぽんぽん、と荒野の肩を叩き、荒野の耳元に口を寄せて、小声で囁く。
「あれだ。
充実していたわけだ、昨夜は……」
荒野がその意味を飲み込むまで、数秒の時間を必要とした。
「いやっ! 違うっ! そういうんじゃないからっ!」
荒野は、慌てて、舞花の想像を打ち消す。
舞花は、荒野と茅の関係についても、かなり事実に近いところまで知っているわけだから、ムキになって否定する必要もないのだが……昨夜は、実際に「何にも」なかったのだ。試験期間中だし、それでなくとも平日は、そういうことを控えるよう、自粛している。
荒野は知らず知らずのうちに、自分が大声を出していたことに気づいて、声をひそめる。
「……いや本当。
昨日は、そういうこと、何もない。
別に隠しているわけではなくてだな……ってか、お前、発想がおやじ化しているぞ……」
「……いいじゃないか、これくらい」
舞花は、少し憮然とした表情になった。
「意外に大事なことだぞ、こういうのは……。
……本当に、昨日、何にもなかったの?」
「ないよ。本当に。
嘘をつかなけりゃないらない理由も、ないし……」
荒野も、微妙な表情を作って応じる。
『実に、学生らしくない会話だな』、という思いが、荒野の表情を苦いものにしている。
「……そっかぁ……」
舞花は、一応、荒野のいうことに納得してくれたようだった。
「……その割には、茅ちゃん……その、まんぞくっーって顔していたから……」
「……ええっと……」
……どうやったら、茅からそんな表情が読みとれるのか……とか、疑問に思いながら、荒野は一応確認してみる。
「……そう、見えるのか?
その、茅が満ち足りているように……」
「茅ちゃん、満ち足りている、満ち足りている……」
荒野の言い方を反復しながら、舞花はうんうんと頷いてみせる。
「ちゃんと、いつもあの状態に持っていかないとだめだぞ、おにーさん……。
それが男の甲斐性ってもんだ……」
舞花はそういって、ばんばんと景気よく荒野の背中を叩く。
それから二、三、他愛のないやりとりをして近くにたむろしていた他の連中と合流した。
結局、これだけ話しをしても茅の「ご機嫌」の理由はわからなかったわけだが……。
『……ま、いいか……』
理由はどうあれ……逆に、茅の機嫌が悪いよりは、機嫌がいい方が、いい……に、決まっているのだ。
茅がご満悦なである限り、荒野にしても異存はない。
ただ……。
『このご機嫌状態を、保っておくコツみたいのがあれば……』
是非、誰かにご伝授願いたいものである……とは、思った。
そして、登校してしまえば、荒野も茅も一生徒としてしか扱われなくなる。学校とは生徒を均質な社会的存在に仕立てあるのが主たる機能であり、荒野と茅はそういう場所であることを理解した上で、学生として籍を置いている。
そして、一学生である荒野と茅にとって……いや、全校生徒にとって、本日は期末試験二日目、という、大方には受けの悪い日であった。
茅たち一年生にとって、は、どうか知らないが、荒野たち二年生の教室内は、昨日と比較しても殺伐としていた。おそらく、昨日の点数に自信を持てない生徒たちが、その分、今日以降の試験で点数を取り返そうと必死になっているのだろう。
特に玉木などは、昨日にもまして血の気が抜けた蒼白な顔で目の下に隈をつくり目も血走っている……。
「……って、おいっ!」
荒野は、玉木のあまりにも憔悴した様子に驚き、思わず、といった感じで声を上げた。
「おま……大丈夫かっ?」
どうみても、大丈夫な様子ではない。
どうりで……登校中も、やけに静かだと思ったら……。
玉木一人がしゃべらないだけで、登校中の騒音は当社比八割減くらいになっているような気がする……。
「……あんだよ……」
玉木は上目遣いで荒野を見上げながら、物憂げな様子で答えた。目が座っているし、呂律も回っていない。
「……何って、おまえ……。
って、それ、なんだよ?」
荒野は、玉木が両手で包むようにして持ち、その中身をストローで啜っている茶色い小瓶を指さす。
「……もしかして、危ない薬じゃないだろうな?」
「んなわけないっしょっ……」
ずずずっ、と最後の一滴まで瓶の中身を啜りきって、玉木は荒野に応じた。
「しっかり市販されている医薬外品。ドリンク剤。徹夜の友。
第一、完徹も三日以上になればクスリなんざやらなくても脳内麻薬だけで立派にトリップできまっせぇー……」
そう答えた後、玉木は「けけけけけけけけっ」と調子っぱずれな笑い声をあげた。
目が、座っている。
「あー。
たしかにトリップはしているようだな、お前……」
トリップしていなくても常軌に逸しているところがある玉木ではあったが……おそらく、荒野にはよくわからない「ドリンク剤」とやらの薬効ではなく、純粋に、徹夜続きで頭がハイになっているだけだろう。常識的に考えてみても、危ないドラッグ類を教室内で公然と啜るわけがない。
「……チミも飲むかね?」
玉木が未開封の同じ瓶を、荒野に向かって放り投げる。
受け取って、ラベルに印刷してある成分表示を確認した荒野は……少し、いや、かなり、呆れた。
「刺激物ばかりじゃないか……」
危ないドラッグでこそ、ないのかも知れないが……。
「……こんなの、若いうちからガブ飲みしていると、体壊すぞ……」
そういって荒野が玉木をみると、玉木は椅子に座った格好のまま、「くかー」と寝息をたてていた。
器用なことに、目を見開いたまま。
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つづき]
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