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エロマンガ・スタディーズ

一言でいって、「労作」である。
エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門 エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門
永山 薫 (2006/11)
イーストプレス

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 いったい、これ一冊を著すのに、どれほどの時間と労力を必要とするのか……少し想像を巡らせるだけで、軽い目眩を感じる。

 これだけ夥しく大量に、それこそ、怒濤のように刊行されているエロマンガのほとんどに目を通した上で言及していることは、第一部の「エロマンガ全史」に眼を通すだけでも、十二分に了解できる。
 その目眩は、本書の中で「引用」されている図版類(もちろん、エロマンガの一部をコピーしたものだ)の多さをみるにつけ、また、それらの使用許可を版元やら著者やらに求める手間の煩雑さを想像すると、さらに大きくなる。
 その手間を厭わぬ情熱は、いったいどこからでてくるのだろうか? という疑問も湧くが。

 多少の知識がある人ならだいたい頷いてくれるかと思うが、エロマンガとは、本書の中でも繰り返し言及されているように、「有害図書」として指定され、何か事件があれば白眼視され、市場的には、幾度かの迫害さえ受けた日陰者的な存在である。
 加えて、版元や著者(の大多数)にも、意欲が乏しく、身過ぎ世過ぎの消耗品として流通・消費されるものが大勢であり……つまり、「そのほとんどが、見るに堪えない駄作、愚作」ということだ。
 実際、わたしの経験からいっても、「チラシの裏」的な粗雑品が多い。特に、数年前まではひどかった。ここ十数年は、描き手のスキルが無駄にあがっているので本当に「ひどい絵」にぶち当たる確率が一頃よりは格段に減っているし、非十八禁と十八禁、両方の市場で活躍する実力派作家も、昨今では決して珍しくないのだが……そんなのは、ごくごく最近の傾向だ。
 エロマンガ、なんてのは、場合によっては、まともな流通ルートさえ持たないカストリ雑誌に一回掲載されて終わり、という「読み捨て」前提で出発した。当然、低クオリティで当然、という風潮が強かったわけだが……そこから八十年代にロリコンブームがあり(現在、作家・評論家として活躍している大塚英志氏が編集長をつとめた、「ロリポップ」という雑誌が、このムーブメントの起爆剤になった)、それに続く九十年代に以降に、女流作家の台頭、BLやショタ、アニメやその他のオタク的なマーケットとの混合……などを歴て、現在の姿になる。
 その歴史が、実に的確に「第一部」で叙述されていて、この項だけでも十分に定価分の価値がある。

 それに続く「第二部」では、「萌え」や「フェチ」、「レイプ」、「性倒錯」、「SM」や「身体改造」、「ジェンダーの混乱」など、細部化された領域やニーズに対する分析にまで分け入っていく。こうした分析は、すなわち、「こうしたマニアックな嗜好を消費するぼくたち=読者=この本の著者」の、(場合によっては)隠されて性向までもを白日に晒す。
 そうした、「内なる異常性」を汲み取って開示していく際の、淡々とした文体に、強靱な知性と客観性を感じた。
 個人的には、「歴史」を描いた「第一部」よりも、分析と解釈を含むこの「第二部」の方に、迫力を感じる。この第二部、いいフレーズは山ほどあって、引用しはじめると際限がないのだが、あえてその分析の「クールさ」を現す一文を引用するとすれば、「終章 浸透と拡散とその後」にある、
もちろん、『苺ましゅまろ』は通常の意味でのポルノグラフィではないし、エロ漫画でもない。しかし、逆説的に言えば、不能であるが故に、無限遠に止められた「寸止め」であるが故に、極めて猥褻なのである。あえてセクソシスト的な物言いをするのならば、男性読者向け媒体に掲載された男性作家の脳内楽園を我々は覗き見ているのだ。(本文二四七ページより引用)

などを見れば、証左としては事足りるかと思う。


著者、「永山薫」氏の、マンガ関連blog:
 永山薫の週刊少年バビロン

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