第六章 「血と技」(220)
昼休み。
荒野は樋口明日樹に鍵を借り、美術準備室に向かう。昨夜、みんなが帰った後、狩野家で何があったのか「事情聴取」を行うため、楓と茅を呼び出しているのだった。
『……何となく……想像は、つくけど……』
今朝、香也を除く狩野家の住人は、「妙に機嫌が良かった」。
ノリが帰還したことで、香也を中心とした人間関係に、なんらかの進展、ないしは変化が起こった……ということは、想像に難くない。
荒野とて、他人の色恋沙汰にあまり干渉したくはないのだが、すでに多大の迷惑をかけている狩野家の人々、特に香也にかける心理的物理的負担、というものを考慮すると……やはり、知らぬふりを決め込んで見て見ぬ振りを決め込むこともできず、最低限、正確な情報を当事者の一人である楓の口から確認しておきたいのであった。
『……香也君……大丈夫かな……』
普通に考えれば、「大丈夫」なわけがないのだが……荒野としては、これで何度目になるのかわからないつぶやきを心中で漏らさないわけにもいかない。
荒野が借りてきた美術室の鍵をあけ、中に入って五分弱待つと、楓と茅が揃ってやってくる。楓と茅は同じクラスだった。
会話の内容が微妙な、他人に聞かれると支障がある内容になりそうに思えたので、三人で、狭くて雑然とした美術準備室の方に移動する。毎日、放課後に当番の生徒の手で掃除がなされている筈だったが、所狭しと石膏像などの備品がおかれている美術準備室内は、どことなく埃っぽく薄汚れた印象を受けた。
茅と楓は、珍しそうに周囲を見渡している。美術部員でもなければ、普通の生徒がここまで入り込む機会はそんなにない。
「……何で呼ばれたのか、だいたい、想像はついていると思うけど……」
そこいらにあったパイプ椅子とか段ボール箱とかに適当に腰掛けて落ち着いてから、荒野はそう切り出した。
「……正直、あんまり干渉もしたくはないんだけど……香也君が、心配だ。
昨夜、おれたちが帰った後……彼を巡って、何があった?」
単刀直入、かつ、明確な返答を楓に迫る口調だった。
「……あっ、はいっ……」
楓は、一度荒野の気迫に押されてその場でしゃんと背筋を伸ばし、それから頬を……いや、耳まで真っ赤にして、もじもじと落ち着かない様子で視線をさまよわせた。
「あっ……あの……。
やっぱり、はっきりいわなっくっちゃあ……駄目、ですか?」
顔を伏せた楓が、一度チラリと荒野の顔を一瞥する。
「……その態度で、おおよそ、おれの推測が誤っていないという事が、はっきりした」
荒野は、少し辟易した表情で答える。
「いいか?
のろけが聞きたいわけでもなければ、恋愛カウンセリングをするためにお前を呼んだわけではない。
重要なのは……本来、おれたちとは無関係な人たちに……迷惑をかけているのか……ということで……」
ここで荒野は、わざとらしく太いため息をついた。
「もちろん、お前が現在も未来も絶対に大丈夫、お世話になっている狩野家のみなさんに無用のご迷惑をおかけすることはいっさいありません……と、はっきり断言できるのなら、このまま何もいわずに帰っていい。
もっとはっきりいうと、だ。
彼、香也君、な……」
荒野が「香也」の名を出すと、楓はもう一度全身をピクリと震わせた。
「……お前らが、彼に今後、物理的精神的な負担を一切おかけする心配がありません……と、そういい切ることができるのなら……。
おれも、何もいわないよ。
だけど……今後、少しでもこじれる可能性があるのなら……早めに、おれたちに状況報告してくれた方が、おれたちも対処しやすいんだけど……」
いいながら、荒野は「……えらそうなことをいっているな、おれも……」と、心中で呟いた。
そっち方面に詳しい知識を持つわけでもなければ、経験豊富なわけでもない荒野は……それでも、場合によっては、自分なりに「なんとかする」つもりだった。
妙な所で義理堅く、背負わないでもいいような責任を自分から背負い込んでしまう傾向が、荒野にはある。
その時、茅が、荒野の肩を指で叩き、無言のまま戸口の方を指さす。荒野は軽く頷いて、足音を忍ばせて戸口まで歩み寄り、一気に、ドアを開く。
「……そんなところで、なにをやっているんだ?
……玉木」
ドアにぴったりと耳をつけた姿勢で半身を前に倒して折り曲げていた玉木に、荒野が尋ねる。
茅に少し遅れて、荒野も美術室の人が入った気配を感じ取っていた。
そして……こんなに分かりやすく、文字通り「聞き耳を立てる」人間の心当たりなど……確かに、玉木くらいしかいないのであった。
「……あっ……ええとっ……いや、その……。
い、いやっ! ち、違うんだっ! これはっ!」
硬直から解けた玉木はパタパタと手を振りながら、弁明になっていない弁明を行う。
「何が、どう違うのかわからないけど……」
荒野は、玉木に顔を向けて、楓の方を指さした。
「……ことは、プライベートに属することだからな。
どうしても聞きたいっていうんなら、おれに言い訳するよりも、楓本人に頼め」
楓が承知しなかったら荒野は玉木を叩き出すつもりだったが、楓は「そうですね、相談に乗ってくださる方は、この場合、多い方が……」とかいいながら、玉木もこの場で楓の語る事情を聞くことを承知した。
『……こんな、興味本位の奴に相談、って……』
と、荒野も内心ではかなり不安に思ったものだが、楓自身が承知していることを、荒野がひっくり返すのも、筋道としておかしい。根本的な所で人が好い楓は、玉木だけが例外ではなく、おしなべて、他人が自分に対して悪意を持つことがある……ということを、前提としていない節がある。
そのまま、荒野、茅、玉木の三人で、中断していた楓の説明を聞くことにした。
楓の「説明」がはじまると、玉木は「ええっ!」とか「そこまでしますかぁっ!」とか「破廉恥な、まったく、破廉恥なっ!」とかいう声をあげながら赤くなったり青くなったりした。
楓が語る「昨夜の出来事」がちょいとしたポルノグラフィだったため、その手のことに免疫のない玉木が照れ隠しに騒ぎはじめたわけだが、いい加減うるさいさい話しが先に進まないので、早い段階で荒野は「出ていくか、静かにするか、どちらかを選べ」と少し凄んだら、ようやく静かになった。それでもそれ以後の玉木は、楓の「説明」がすべて終わるまで、顔を伏せて耳まで真っ赤にして俯いていた。
『……まあ、年齢相応の反応かも知れないけど……』
と、そんな玉木の反応をみながら、荒野は思う。
顔を合わせるたびに回数自慢を繰り広げるようなバカップルは、日本の同年輩の学生の中ではやはり少数派だろう。
一方、「説明」している方の楓はといえば、どうやら、「自分がそんなに過激なことをしている」という自覚はないらしい。楓にとって香也を巡る一連の出来事は、「ごく自然な成り行きで、なるべくしてそうなった」出来事であり、必要以上に包み隠そうとは思っていないようだ。
性的な事柄に対して必要以上に関心を持たない楓の感性は、荒野にしてみれば、わかりやすい玉木の反応よりは、よっぽど理解しがたい。
「……それで、ですね……」
一通り、荒野を中心としたらんちき騒ぎ、つまり、昨夜行われた多人数プレイをすべて説明し終えた楓は、いよいよ本題を切り出した。
「……わたしが問題だと思ったのは……やはり、香也様の精神的な……なんというんでしょうか……他人との接触を避けようとする、傾向です……。
わたしは、そういう専門的な知識はないですけど、ああいういうのって……放っておいても、大丈夫なんでしょうか?」
[つづく]
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