第六章 「血と技」(170)
茅は、路上を走る時と変わらない速度で、電線の上を走る。走りながら、茅は、首に吊した紐をたぐって、双眼鏡を構えている。電線の配置をすべて記憶している茅は、足元を確認する必要もなかった。風力、それに、茅の自重と走ることによって生じるたわみ、など、自然現象によって起こる要素は、すべて茅の頭の中でシミュレートできる。通行人さえいないこの場所では、茅は脳裏に浮かぶ像に従って足を動かしていけば、落下する心配はほとんどない。
だから、茅は、全速力で走りながら、双眼鏡を構えることが可能だった。
先ほども、楓が電線や街路樹の枝に積もった雪をテンとガクの上に落として、結果として二人を分担したこと双眼鏡で確認し、荒野に伝えたばかりだった。
「楓は、三人の分断を図りながら、河原の方に向かっている」
と。
繋ぎっぱなしの携帯電話から、荒野の声が聞こえてくる。それによると、荒野は、先ほどベランダにいた男と同行して、軽く情報交換をしているらしかった。荒野の声は拾えたが、その男がしゃべったことまでは、茅の耳には入らない。
ただ、荒野がいったことを聞いているだけでも、ベランダにいた男とテンやガクの後をつけている白いダウンジャケットの関係や立場は、茅には容易に推測することができた。
白いダウンジャケットは、この土地に流入してきた一族の者たちが流布した噂話を耳にして、楓の様子を見に来た。ベランダの男は、その白いダウンジャケットの仲間。
ベランダにいた男は、素行になんらかの問題がある白いダウンジャケットの動向を監視し、もし問題が発生しそうなら、その場で白いダウンジャケットの行動を阻止するための……いわば「お目付役」なのではないか、と、茅は、断片的な荒野の発言から推察する。
だとすれば、ベランダの男は、白いダウンジャケットが暴走した際、抑止力となりうる何らかの切り札を所持している可能性が高い……と、茅は、さらに推測を進める。ベランダの男は、白いダウンジャケットの能力を高く評価するようなことをいいながらも、だからといって、それを恐れる様子をみせず、むしろ、飄然と余裕のある態度を崩していない。
また、ベランダの男が一度だけ名前を出した「先代」というのが、具体的に誰を指すのか……あの白いダウンジャケットの身柄をベランダの男に預けたらしい人物の正体について、茅はかなりひっかかりを憶えたのだが……一族内部の内情についてよく知らない茅には、どんな予想も不可能だった。
情勢に大きな変化は見られないし、今の時点で荒野たち二人の会話を邪魔するほど緊急の用件でもないので、茅はそのことには口をつぐんだまま、双眼鏡で楓たちの動向を監視しながら、電線の上を全速力で駆け抜けていく。
茅が黙っている間にも荒野たちの会話は続き、茅が、
「……楓たちが、橋を渡りはじめたの」
と、「状況の変化」を荒野に報告する。
楓一人を追う三人、という構図は、崩れていなかったので、荒野にはあえて報告しない。何も言わないことが、「変化なし」という報告の代わりであり、荒野にはそれで通用する筈だ。
茅がそう報告した直後に、マイクが、急にノイズを拾うようになった。
どうやら、開けた場所にでて、マイクへの風当たりも強くなったため、らしい。
茅は、荒野たちの現在地まで把握していないが、おおよその目的地はぼ確定しているのだから、荒野たちの現在地についても、おおよそ見当がつく。
今、風の強い、開けた場所……橋の上に来た、ということは、楓たちにそう遅れずに、荒野たちが追尾している……ということだ。
双眼鏡の中の楓たちは、あっという間に橋を渡りきり、土手の向こう側へと姿を消した。
茅の推測を証明するように、荒野ともう一人の男が、楓たちのすぐ後を追っていく。
『……ちょうど、これからいい所、みたいだね。
雪積もっているし、今の時間のここなら、人通りもほとんどないから……しばらく、高見の見物といこう。
お手並み拝見、ってね……』
それからいくらもしないうちに、ヘッドホンから、そんな荒野の声が聞こえてきた。
荒野たちは、橋を渡り、河川敷にいる楓たちに、追いついたのだ。
双眼鏡でも、荒野たち二人が土手の上に立って、下方の河川敷を見下ろしているのが、見えた。
もはや双眼鏡は必要なし、と判断した茅は手を離し、双眼鏡が首紐にぶら下がるままにしておいて無造作に空中に飛び出し、そのまま、、電線の上から地上へと落下する。
茅の柔軟な下半身の筋肉は、落下の衝撃を難なく受け止め、茅は、着地直後から、足跡の付いていない雪の積もった道路を、まるで何事もなかったよう駆けだしていく。
雪が積もっていることと、まだ早朝と呼んでよい時間であることが幸いして、あたりには車通りも人通りもない。仮に車両や歩行者が通りかかったとしても、鋭敏な聴覚を持つ茅は、数十メートル先からその存在に気づく。
だから、茅は、交通規則に構わず、車道の真ん中や十字路でも足を止めずに平気で横切り、最短距離を走っていった。
『まずは楓の手の内を確かめてから……という、予測通りですね。
まずは、あの二人をけしかけた……。
さて、今度は……前よりは、長く保たせられるかな……』
携帯に接続したヘッドホンから、荒野の声が聞こえる。
テンとガクが、楓に向かっていっているらしい。
そうした声を聞きながら、茅は、火照った顔で冷たい風を切る感触が、心地よい……と、茅は思ったが、楓や荒野は、もっと「速い」世界を普通に体験しているのだ、と思うと、少し悔しい気もする。
マンションを出てから全力疾走をしていた甲斐があって、茅は、荒野からさほど遅れずに橋に到着した。
『以前より……少しは、ましか……。
でも、まだまだ飛び道具を使っての戦い方に、慣れていない……かな』
荒野は、どうやらテンとガクの戦い方を論評しているらしい。
テンとガクは、予想通り、楓にあっけなく圧倒されたようだ。
その時、茅は橋を渡りきった。そのまま足を緩めず、荒野が立つ場所へと土手の上を走っていく。荒野の姿がどんどん大きくなる。
「……って、いきなりマジかよ! 全開ですかよ!」
ヘッドホンを通さなくとも、荒野の声が聞こえる距離にまで近づいた。まだ茅の存在に気づいていない荒野は、河川敷の方を指さしてわめいている。
「お嬢は……そういう、人なんです……」
ベランダにいた男も、そういって肩を竦めている。
茅が立ち止まって荒野が指さす方向……つまり、土手下の河川敷を見ると、そこには、白いダウンジャケットを脱いで、楓に殺到していく女性の姿があった。
その女性は、ダウンジャケットの下に鎖帷子を着込んでいて、その鎖帷子には、夥しい六角が据え付けられている。
その姿を目の当たりにすれば……荒野のいうとおり……「マジ」で「全開」だ、と、茅も、思わないわけにはいかなかった。
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つづき]
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