第六章 「血と技」(323)
「特に、加納の姫。
お前は、誰にも教えられる前から、見よう見真似で、このぼくを出し抜いている。少しコツを教えてやれば十分という気もするが……この呼吸法は、精神を統一のトレーニングも兼ねているので、習得しておいて損にはならないだろう……」
言い終わるや否や、現象は、一気に茅との間合いを詰め、茅の腹部に掌を強く押し当て……怪訝な表情になった。
「……お前……」
現象が何かを言い終える前に、テンが、いきなり茅の身体に触った現象に向け、手足を振り上げる。
「……無駄だ。
ここ二、三日、そこいらにたむろしている連中に、さんざん小突かれたんでな……。
おかげで、不意打ちや攻撃を見切るのだけは、随分と上達した……」
現象は、わずかに身体を反らして、テンの攻撃をなんなくかわす。
「それに……別に、姫に危害を加えるつもりはない。呼吸法を教えるに当たって、こうして直接、腹部に触れて確かめながら行った方が、手っ取り早いというだけだ……」
現象は、かすかに眉をひそめただけで、自分を攻撃したテンに向かって、そう言い放った。
「しかし、姫……。
お前は……見かけによらず……鍛えているんだな……」
現象の驚愕は、直に触れてみた茅の腹部が、柔らかな脂肪層に包まれながらも、その奥にしっかりと硬くなった筋肉を内包していたから……だった。
「鍛えているの」
茅は、淡々とした口調で答える。
「誰の……荒野の邪魔に、足手まといにならないために、必死になって鍛えたの」
現象と茅のやりとりを間近に見たテンは、振り上げた手を降ろして……二人の様子を、もう少しの間、見守ることにした。
「姫……。
このままの状態で、これからぼくがいうことを、繰り返し、いってみろ……」
そう前置きしてから、現象は、
「あぁー、いぃー、おぉー……」
と、妙な高低をつけて、母音ばかりを、腹式呼吸で腹の底から域を吐き出しながら、口にする。
「あぁー、いぃー、おぉー……」
茅も、現象に腹を押さえられながら、現象のいうとおりに、奇妙な発声練習繰り返して見せた。
「……ぁおぃえぉあぁー……」
「……ぁおぃえぉあぁー……」
「……ぅぉあぁぃえぉぅえぉぃぁぃぁぇぉぇあぁー……」
「……ぅぉあぁぃえぉぅえぉぃぁぃぁぇぉぇあぁー……」
現象が示す見本は、徐々に複雑さを増していくなか、徐々に、二人は確かに喉の奥から息を吐きながらも、「音」として聞こえてこない部分が増えていった。
「……ぅえぉ……ぃあぃ……ぇぉ……ぃぉぃ……」
「……ぅえぉ……ぃあぃ……ぇぉ……ぃぉぃ……」
茅は、額に汗を浮かべながら、懸命に、現象がいった通りの発声を、反復しようとしている。
二人の様子を見守っているテンは、眉を顰めながら、神経を集中させて、二人の「声」を、聞き取ろうとしていた。
二人の声は、今や、常人の可聴音域から外れていることが多く……それどころか、テンが一心不乱に聞き取ろうとしても、聞き取れない部分の方が、多くなってきている。
今の現象と茅の様子を、何も事情を知らされていない一般人がみたら、二人がやけに真剣な面持ちで向かい合い、口パクをしているように見えたことだろう。
しかし……二人の奇妙な「発声練習」に聞き耳を立てていたテンは……。
『……あ、あれ……』
……こめかみの血管が、どくどくと脈打っているのを感じていた。
顔が、熱っぽい。頭に血が昇っていくの、テンは自覚する。
どくん、と、テンの視界が大きく揺れた……ような、気がした。
……錯覚だ……と、即座にテンは断じる。
二人の「声なき声」を聞き取ろうとしている間に……テンの知覚が、一気に拡大した。
テンの知覚系が、短時間のうちに、急速に拡大したため……視界が、揺らめいたように錯覚したのだ……と、テンは、瞬時に「理解」した。
『……音が、導く……』
ここに至って……テンは、佐久間が人外の知覚を手に入れるためにメソッドが、効果的であることを、認める。
ぐん、と、また、テンの知覚系が、「深く」……ほんの数分前よりも、もっとより細かい部分まで、周囲の状況を感知している……と、テンは感じる。
ただ……二人の「声」を聞き逃すまい……と、神経を集中していたテンでさえ、これほどの変化が現れているとすると……。
『……茅さんは……』
実際に、変化/成長を促進する「声」を発している茅は……もっと劇的な変化を、体験しているのではないか……と、テンは予測する。
『……昨日のガクの様子が……』
納得できるな……と、テンは思う。
こめかみは、相変わらずずきずきと脈打ち、鼓動と脈拍が、劇的に早くなっていることを自覚しながら……それでも、テンは、周囲の状況がテン見えている光景が、肌に触れる空気の些細な温度差や感触が……格段に細かく感じ取れるようになっており、そこのことが、テンをハイにさせている。二人の「声」を聞き取ろうとしている聴覚だけが、「拡大」を自覚できなかった。
例えるなら……目にするもの全ての解像度が、一気に跳ね上がった気分、とでもいうのか……。
『……世界、って……』
こんなに精巧で、明るかったんだ……と、テンは思う。
そして、テンがふと気づくと、茅が、その場に膝をついて、肩で息をしていた。
「……はじめてにしては、上出来だ。
流石は、加納の姫……といったところか……」
そういう現象も、額にうっすらと汗を浮かべている。
「……これは……もう、憶えたの……」
立ち上がる気力もないのか、膝をついたまま、茅は、毅然とした表情で現象を見上げた。
「……憶えたからには……再現できる。
他の三人にも、茅が、同じことを、教えてあげられる……」
[
つづき]
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