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彼女はくノ一! 第四話 (30)

第四話 夢と希望の、新学期(30)

 盤面を睨みながら長々とあらゆる可能性を検討し、ようやく篤朗がうった手はトラップでも布石でもない、と結論づけた孫子は、ようやく石を置いて篤朗の黒石を取った。
 無難で順当な一手だったが、篤朗は盤面をちらりと一瞥すると、また見当はずれ(の、ように見える)位置に、ぞんざいで適当な動作で自分の石を置く。
 孫子は、また、今の時点で篤朗がそんな場所に石を置いたのか十分近くかけて検討し、結局先ほどと同じような無難な一手を置いて、篤朗の石を取る……。

 そんな「孫子の熟考の末の一手、篤朗のいい加減な一手、孫子の熟考の末の一手……」という流れが何度か繰り返された末、篤朗の白石はみるみる孫子に取られ、盤面に残った石はほとんど黒になった。

「……これ、孫子さんが圧倒しているように見えるんですけど……」
 玉木が不審な表情で解説役の狭間に訪ねた。
「……と、いうより、篤朗君……徳川君が、勝負を投げているように見えるでしょうねぇ……。
 これでは……」
『……これ、篤朗君がよくやる手なんだけど……』
 篤朗の手口をよく知る狭間紗織は、どのように説明したものか言葉を選びながら、ゆっくりと説明しはじめた。
「篤朗君、しばらく対局してみて、手応えがありそうだと思った相手に対しては、いつも、わざとこうするんです……」
「……はい?」
 玉木が、目を点にして狭間に問い返した。
「篤朗君……気に入った相手には、しばらくランダムな所に石を置いて……盤面をわざとカオス状態にしてから、真面目に打ち始めるんです……」
 狭間は……篤朗のこの嫌がらせに近い打ち方のせいで、真面目な部員が何人も幽霊部員と化した……ということは、あえていわなかった。

「あ……猫」
 カメラマン役をつとめていた有働勇作は、どこからか太った黒猫が部室内に入り込んできたのを確認した。その猫が器用に長椅子によじ登り、机の上に置いた盤面、孫子と篤朗の間に置かれた勝負中の盤面に飛び乗ろうとするのを、有働は危ういところで抱きとめて、阻止する。
 まるまると太ったその黒猫は重く、片手にカメラを持ちながらもう一方の手で黒猫の体を抱えなければならなかった有働は、想像した以上の負荷を感じ、有働の猫を抱えたほうの手をぷるぷると震わせる。
「……ん?」
 その様子に、篤朗がようやく気づいた。
「……もうそんな時間なのか……」
 とかいいながら、部室のロッカーを開けて猫缶を取り出し、それを開ける。
 猫の鼻先に見せつけるように蓋を開けた猫缶をちらつかせ、猫缶を床に置くと。黒猫は有働の胸板をけ飛ばして、床の猫缶に殺到した。
「……いつもこの時間に餌をやっているのだ……」
 眉毛をぴくりと動かした孫子が、篤朗になにか言おうと口を開けた時、篤朗はぱちりと例によって盤面をろくに見もせずに自分の石を置く。
 勝負にどん欲で基本的に真面目な孫子は、篤朗に文句をいうタイミングを失い、盤面に向き直り、またあらゆる可能性を検討しはじめた……。

「……とくろー、こっちいるー?
 仲元さんにこっちって聞いたけど……」
 そして数分後、ようやく孫子が自分の石を置いたところで、がらりと引き戸を開けて二十代に見える女性が部室に入ってきた。
「……あ。いたいた……って、なんか今日は賑やかね、珍しく……。
 みんな学校休みだってのにこんな所来て……暇だねぇ……若いうちはもっと積極的に遊んだ方がいいぞ、青少年たち……」
 その女性は、カメラを抱えて篤朗たちを囲んでいた放送部員にたちに気軽にそう声をかけてから、
「ま。いいや。
 急ぎの仕事入ったから、また二、三日、浅黄のこと頼むわ……」
 と、連れてきた浅黄の小さな体を篤朗に押しつけるようにして、来たときと同じ素早さで部室から姿を消した。
 篤朗は適当に石を置いてから、誰にともなく説明しはじめた。
「今のが姉、これが姪なのだ」
 篤朗がそう紹介すると、それまでおとなしくしていた浅黄が、
「猫さんだー!」
 と食後、その場で丸くなってうとうとしていた黒猫に突進した。
 黒猫は浅黄の甲高い声に即座に反応し、俊敏な動作で椅子や机の上をバウンドし、最終的には有働勇作の頭の上に鎮座した。
 頭上にいきなり五キロ以上の負荷を抱えることになった有働勇作は情けない顔をして上目遣いに自分の額の辺りをうろうろしている黒猫のしっぽを見つめる。
「……そいつは、姪がそばにいる時は、高いところに逃げる習性があるのだ……」
 篤朗は、有働に諭すような口調で、そういう。
 黒猫は有働の頭の上で丸くなって、盛大なあくびをした。
「姉は、トラベル・ライター……旅行雑誌のフリーライターをやっているのだ。
 よく姪を預けて、何日か仕事にいくのだ……」

 孫子は、そうした騒ぎに肩を震わせながらも、懸命に盤面に集中しようとしていた。方を震わせていたのは、笑いを堪えたため、ではなく、逆に、怒りの発作を抑えているためだろう。
 徳川浅黄は、がたいの大きな有働の足下にまとわりついて「ねこさんー、ねこさんー」と言いながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。

 モニター越しのそうした光景を見ていた加納茅が、無言のまま実習室から出ていって、数分後、モニターの中、つまり囲碁将棋部の部室内に姿を現した。
 茅の姿を認めた徳川浅黄は、「ねこさんー、ねこさんー」と言いながら、今度は茅のほうにまとわりつきはじめ、茅は浅黄にまとまりつかれながら、静かに部室を出ていった。

 ようやく静かになった部室で、才賀孫子はあきらかにほっとした表情で、一手、うった。

「……えー。才賀さん、今のところ、十五石を取っています。
 対して、徳川君はわずか三石。盤面もほとんど白で、素人目には才賀さんがかなり有利にみえるのですが……」
「……普通なら、そうなんですけど……徳川君が、相手ですと……」
 玉木の言葉に狭間が答えた時、篤朗がぱちりと石を置いて、同時に、孫子が目を見開いてその一手を見つめた。
『……ほら、来た……』
 そう思いながらも、狭間は盤面のコピー画面を指さしながら解説する。
「……今、徳川君がうったのはここ……ここに置くと、才賀さんが一手で今、徳川君がいた石を取れるようになります……ほら、才賀さん、そこに置きました。
 普通なら、そうしますね……」
 孫子が黒石を取ると、すぐさま篤朗が次の石を置く。その石も、すぐに孫子に取られた。

 断然有利、と確信した孫子は、もはや最前のように数分の時間をかけて細部を検討することなく、直感に従って石を置きはじめているように見えた。

[つづき]
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